世界ぢゅうポエム

やさしさは見えない翼ね

雲間から光が射せば
身体ごと宙に浮かぶの

やさしさは見えない翼ね
遠くからあなたが呼んでる

安田成美「風の谷のナウシカ」

この曲を聴いていると、まるで生命のシステム全体が呼吸しているような、有機的な広がりの中に埋もれていくような感覚を覚える。しかし同時に、そこには個々の存在が確かに肯定されてもいる。生命一つひとつの固有性が独立しながら、全体の中で相互に関わり合い、織りなされてゆく巨大な有機体が立ち上がってくるのだ。この両義的な現象を媒介するものとして、ここでは「浮力」と呼びうる力が作用しているように思われる。

優しさとは、しばしば共感と同一視される。相手の痛みを自分の痛みとして感じることが、真の優しさであると考えがちだ。しかし、現実はもう少しそっけないかたちをしているのではないか。それは、互いにわかり得ないままでいながらも調和を可能にする……かもしれない人間の伸び代としての「余白」だ。ここで前提とされているのは、人間を不完全な存在として受け入れつつ、その不完全性を価値あるものとみなす態度である。

肝心なのは「浮力」だ。わかり合うことや混じり合うことを必須条件とせず、むしろ不完全性を維持したまま相互作用を成立させる力である。この構造において重要なのは、超越的な理想に到達することではなく、人間が有限性の内部でなお前進することにある。

ここでふと、「存間」という概念を想起した。「存問」とは人が世界に対して行う巨大な挨拶のことである。これは、人間の存在が世界の中でただ継続し、その存在を確認し合うという営みそのものに価値を見いだす態度を示していると言えるのではないだろうか。この「存間」の契機は、先に述べた優しさの浮力と深く響き合っている、かもしれない。

日常の存問が即ち俳句である

高浜虚子『虚子俳話』

一見すると、そのままの人間への信頼は進歩の理念と矛盾するように映る。しかし、本質的には深いところで繋がっている。ここで言う前進とは単に新しくなることではない。観測者としての意識を更新することだ。人が世界をより深く観測し、理解し直すことで、新しい現実の可能性が開かれる。毎回新たに世界と出会い直すこと、毎回初めて桜を見るような新鮮な目で世界を見ること、それこそ観測の核心にほかならない。

われわれは果たして、飛べるのだろうか。

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