新京大俳句会発足
かつて「新興俳句運動」と呼ばれる、俳句界における一大ムーブメントを牽引した中心的な組織である「京大俳句」を前身とし、「新京大俳句」は2024年6月4日に発起人であるカジオ・ブランコ、濱田春樹、蒋草馬の手によって新たに発足しました。
私たちの会は、京大俳句の長い歴史を背後に意識し、そこに根差した伝統を尊重しつつも、時代の変化に応じた新たな一歩を踏み出すことを目指しています。その象徴として、会名にはあえて「新」という一文字を加えました。
これには、過去の伝統を大切にしつつも、まったく新しい風を吹き込もうという強い意志が込められています。私たちが行うひとつひとつの活動が、やがて俳句史において意義深いものとなり、将来的にはその一部として後世に語り継がれることを心から願っています。
さて、前述の通り、私たちの前身である京大俳句会は、深い歴史と豊かな伝統を持っています。その全てをここに書き尽くすことはできませんが、その一端をお伝えすることができればと思います。
京大俳句のはじまり

頭の中で白い夏野となつてゐる
— 高屋窓秋
1920年、当時第三高等学校の英文科の学生だった日野草城が中心となり、京大三高俳句会が結成されます。日野草城はのちに性愛を題材にした「ミヤコホテル」の連作で俳壇にセンセーションを巻き起こす大俳人となります。また同年、鈴鹿野風呂(京都帝国大学文学部国文学科卒)など社会人も招き入れ、ともに機関誌「京鹿子」を創刊します。この雑誌がのちの伝説的俳誌「京大俳句」の前身となります。
当時の俳壇では、俳句革新運動において即物写実を提唱した正岡子規とその子規の系譜を直に引き継ぐ高浜虚子が主宰の「ホトトギス」が圧倒的な権威でした。学生俳句の文脈では虚子を指導者に持つ東大俳句会が特にホトトギス色が強く、のちに新興俳句の登場で対概念となる伝統俳句系の俳人を多く輩出するようになります。京大三高俳句会もまた、当時は野風呂を軸としつつ関西のホトトギス派の中心的存在でした。
しかし1933年、「京鹿子」の運営方針の衝突などの理由から「京鹿子」の大勢のメンそバーが脱退、その後新しく「京大俳句」を創刊します。この頃より京大俳句はホトトギスからの離反の色を強めます。ホトトギスの四Sと呼ばれた四俳人のうち、「滝落ちて群青世界とどろけり」に代表されるような主観写生を主張した水原秋桜子と山口誓子はホトトギスをこの頃に離脱し京大俳句の顧問に就任、日野草城のミヤコホテル連作発表もこの頃になります。ちなみに、連作というのは俳句を数句並べて一組の作品として発表することを指しますが、山口誓子がはじめた形式とされ、京大俳旬で頻繁に取り入れられた形式でもあります。
また数年後には、京大俳句で無季俳句容認論が活発化します。この背景には軍国主義の登場がありました。戦争詠は季節を超越するという主張のもと季語を用いない無季俳句が積極的に作られるようになります。以前より無季俳句容認を主張していた日野草城は1935年にホトトギスを除名になります。京大俳句を中心とする無季新興俳句運動は多くの作品を生み出しました。渡辺白泉の「戦争が廊下の奥に立ってゐた」は反戦俳句としてあまりにも有名です。また他には「頭の中で白い夏野となってゐる(高屋窓秋)」も有名でしょうか。
京大俳句事件
戦争が廊下の奥に立つてゐた
– 渡邊白泉

1930年代後半には、関東圏にまで門戸を広げ、西東三鬼や三橋敏雄の参加など、一段と勢いを増していた京大俳句ですが、1940年某日に突然の終焉を迎えます。京大俳句事件です。公安による京大俳句関係の俳人の一斉検挙が行われ、「京大俳句」は廃刊に追い込まれます。運動の中で反戦色が強まった結果、公安に反体制的組織と判断されたのでした。ここで京大俳句の歴史は一度幕を閉じます。
戦後、京大俳句系は、山口誓子や平畑静塔による「天狼」や日野草城の「青玄」など様々な俳誌に受け継がれていきますが、戦前の新興俳句運動が同様のメンバーの「京大俳句」として再起することはありませんでした。
その後

天地無用のビルにて蟹が茹で上がる
— 夏石番矢
戦後も断続的な復活があり竹中宏をはじめとする第二次京大俳句会で京大俳句が復刊する動きがありました。その後半には江里昭彦や上野ちづ子らが活動しました。作品にはニューウェーブの傾向を強く見ることができます。80年代といえば、短歌では『サラダ記念日』が発刊され、加藤治郎や穂村弘をはじめとするニューウェーブ短歌の勃興期でもありました。しかしながらこのときも「京大俳句」は十年ほどで終刊を迎えます。
2000年代以降、教員による「京大俳句」復刊の動きや、「クスノキ」や「自由船」といった学生俳句会の結成も見られましたが、人員不足など諸々の理由で2023年度までに学生を中心とした会はすべて無期限の休会に入っております。